6 posts tagged “著作権”
これはホントすごくその通りじゃないかと我が意を得るような記事!
梅田望夫さんの件ではちょっとどうかと思いかけた池田信夫さんだけどさすがでありまする。。w
しかし、いろんな意味で時代は良くなってきているし、やっぱ「みんなの意見は案外正しい(by梅田氏)」、「人間の世の中はなんだかんだ信頼して良い」って方向にきているのかもな。。!と思わせられる出来事が様々に最近身近でも感じられてなんだか嬉しい今日この頃。(方向に来ていると感じるのは個人的な体験に基づく主観であって、もともとそうなのかもだけど。。?僕にとっては僕の主観がやっぱとても大事でもあるってことで。てへ。)
May the hope be with you!
(↑くさいかもしれんがwこれはとある僕の友人YS君への言葉です。)
楽曲無料化行進曲は鳴りやまない
前エントリーにも関連して、TechCrunchの少し前の記事。
正直な話個人的にテクノロジーの進化とかデジタル化の方向に突っ走りまくる感のある潮流に何ら違和感や不安感を感じないかといえばそんなことはなくて、テクノロジーとの付き合い方はこの先の時代にはますます生活する上でも社会を考えるときにも大きなテーマにもなってくるだろうと思う。
ただ記事にもあるようにここまで来てしまった流れはもう認めるしかないというか、力任せに、しかも、その場しのぎにしかならないようなやり方で流れを止めようとするのは全く賢いやり方ではないというか、結局の意味では関わる誰もが利するところがない様な気もするし、現状に照らして前向きな方策がどんなものであるかをもっとちゃんと考える時期なのではないかなと思える様な。
これはユーザー目線ではなくて音楽(レコードもしくは著作権利権ビジネス)業界の立場で考えるほど実は切実な意味で正論なんじゃないかという気がします。
率直(ってホント難しいですけど。。!)に話し合えない人が不必要に事態を混乱させているのではないかなー。。?というのが世の中の明るみに出始めてきている(あがいてもその方向にきっと行く)のはwebの功績でもあるのかも知れない気が(当然自戒も込めつつ)する今日この頃でもありつつ。
人の心配よりも自分の心配をすることにします。はひ。
秋深し 参加意識を持つことと 我が身を振り返ることの 両立の難しきことかな
おそまつだし字余りまくりだし。きゃ。
書くのに時間が掛かって、時間的にエントリーが前後してしまいましたが、
今回は覗きに行くことが出来ました。
ってまず関係ないことをいきなり書くけど、長年東京に住みながら人生初の本駒込とかひっさびさ大学(母校ではないっす)のキャンパスに入ったとか、予想外の部分でかなり新鮮な気分を味わい良い刺激にもなりました。
(おまけとしてはシンポジウムの後にある経緯で高校生の頃ときどきデートスポットにしていた場所にも足を運ぶ流れに、、w場所にまつわる記憶ってやっぱりすごいっすねぇ。やたら胸キュンモードになってしまった。。w)
つかこざっぱりした下町感覚っていいなー。。と道すがら街を眺めただけでもかなり気持ちが和みました。(開発の仕方が東京は関西の都市に比べてホント下手だというのは駒込でも感じたけど。やっぱこっちは土地が高い分難しくなるってのもあるのかもですがこの辺の条件を探ってみるのも今後の東京や日本のことを考えてみるのに良いヒントが見つかるのではないかなという気もしたり。)
昔は目黒とか世田谷とかでももう少しああいう感じに近い空気があったよなー。。とかそういう記憶もよみがえったりしていました。
いかに現代の都会と言えども、やっぱり古いモノと新しいモノを如何に上手く(センス良く)共存させるかって言うことはすごく大事なテーマなんじゃないかなと感覚としてものすごく痛烈にというか、ひらめきに近い様な感覚でそこを改めて思わされた気もします。
てかそこまで古いものじゃなくても、例えば代官山や表参道も古くなった同潤会をどう扱うかって部分で何かを間違えた気がするし、雰囲気やセンスを感じる街に大資本が入ることで観光地化してしまう(裏原宿とかのかなりというか比較的新しいエリアもそうだし、、、!)みたいな現象が都内各所で起きてきているのはホント今更ながら残念というか、開発は良いとして、マジで資本の大きさもいいけどセンスの部分もきっちり考えてくれっつー話。
まー、、もともとがあやふやな感覚なのかもだし、一回色々失ってそこからまた改めて始まるみたいな部分もあるのかもだけど。
リノベート的な使い方が特に東京の場合は面白いことも起きている気もするし、ハコモノの場合そのくらい落ち着いて寂れてくるまで待つのが東京流?w
ともかくも資本主義の蔓延による均一化っていうのは世界中でも言われていることみたいだし、普遍的なテーマはこの辺にも関わってきているのかも知れません。
閑話休題。
池田信夫氏とか白田秀彰氏のことはネット上でこのところずっと気になっていたので、変な言い方かも知れないけれど、何割かはミーハー感覚もありつつ、、w(キップハンラハンと言い、我ながらおっさんにばっかミーハーになっている、、wつくづく悪趣味だ、、wwwww)テーマ自体もだいぶ関心のある分野のひとつでもあったので参加させて頂きました今回のICPFについての池田さんのblogエントリーを一応ご紹介しつつ、僕なりの感想を。
そもそも僕はこういうシンポジウムみたいなものにほぼ初めて参加してみたので、比較する体験がないわけでして、あんまりもろに色々書きすぎてもとりとめがない書き方になりすぎるかも知れないのでちょっとセーブしつつ書いてみますが、著作権というもの、あるいは法律というそのモノ自体というものは、可能な限り無難な合意(というこの辺の言い方のニュアンスは難しいけど)によって形になるという意識が日本一般の意識として強いのか、近代国家もしくは国家というモノはそういうものなのかなんなのかよくわからないけれど、まーーなんていうか政治的な話の仕方のいやらしさと言うかまどろっこしさとか、そういうものはなんだかとても感じてしまいました。
どうしてそれを考えているのかどういう方向を目指すのかという部分についての意識が(とても)見えにくい発表をするパネリストが多いと感じました。
単純にプレゼンテーションという意味でもあまり上手さを感じなかったし、まあ、、解釈にワザと含みを持たせてなにごとにつけ話すのが法律関連の人たちの、というか、そういう議題の場での、一般的な(?)やり方なのかも知れないけれど、一部のパネリストの方や今回は聴衆席にいた池田さん白田さんを除いては明確なモノの言い方をしない人が多い部分は、なんといえばいいか、、wとても参考になりました。w
あとは非常に気になる部分も見えたんだけど、これは取りあえずはもろにここに書くのはやめておきます。
まあ。。ある意味僕が日常の生活や世の中のある部分に対して違和感を覚える部分についてのムードもとても感じ得る具体的な場面があったし、自分の感覚はそれはそれとしてなにかしらのピントはきっと捉えているのだろうなと言うことは少し嫌な感じで確認出来た気もします。
まーでも色々納得も行ったかも知れない。
今回のシンポジウムとは関係ないけど、梅田さんの「web進化論」それから「フューチャリスト宣言」はしかしホントにうまいバランスの中で世の中の希望の部分を取り上げている本だと思うので、読んでない方には改めてオススメしつつ、あの本を面白いと感じられた方には是非勇気とか希望をしっかり持って同じ時代の空気を吸っていきたいです。。!ということを言いたい気もします。
この辺に関してはまた改めてエントリーをするかも知れません。
僕が思うことですが。
著作権についてはそもそもの著作というモノに関しての肌感覚というか、どうして表現とか創作活動が行われるものなのか、そういうものの行われる意義はなんなのか、そしてそこに「権利」というシステムのルール作りを行い持ち込む理由はなんなのか、とか、その辺を明らかにしなければ議論は意義深さをなかなか持ち得にくいと感じます。
歴史や世界各国との同調というかなんなのかとかも大事なのかも知れないが、時代の肌感覚の尊重も大事でしょ?というか、バランスを見出すためのポイントを適切に理解なり把握出来ているのかがとても疑問。
勿論現実的な整合性、これでいえばベルヌ条約との兼ね合いとか、そういう部分での調整が大切なのはとてもよく分かるけれど、そっちばかりを言ってみてもトータルの意味で議論は非常にアンバランスなモノにしかならないと僕には思えます。
そこを調整して話そうとするパネリストがほとんどいなかったのはなんなんだろうなー。。?と思いました。
僕らも頑張っているんだから理解してくれみたいな言い方は全く場には相応しくないと感じるし、物事に臨む姿勢として世の中に彼等(の一部)が要求しようとしていることと彼等自身の態度には乖離が感じられました。
何故変える必要性が生まれているのか?
なんかいろいろめんどくさくなってきてるし、しょーがないんだよなぁぁ。。。的な感覚でお考えなのでしょうか?
僕はここはホントにもっとしっかりとそう言う状況が生まれていることへの根本的な部分への問いにしっかりと向き合うことが大事な気がします。
僕が白田氏や池田氏を評価したいのはやっぱりその辺を感じさせるが故です。
何かを悪とか敵に見なすことは僕は物事を結局の意味では解決しないと感じるので(勿論感情に流されることは僕も往々にありますが)彼等(の一部)をそう見なそうとするのも違っているとも思うし、主張したい部分での妥当性やなにかしらの誠意とかも感じられるんだけど(出会い方によっては友達にもなりうる人たちだなというのは思ったというか)、そこを言うなれば相応しい人が相応しい役職につくシステムには世の中がなっていないんだなと、、
それを感じたかも知れません。
きっと頭も良い方達なんでしょうが。
世の中のバランスから乖離せざるを得ない世界に彼等の世界がなってしまっているんだろうなと。
ベルヌなんて脱退すればいいんだと一度言いかけた(いや、言ったwワザと議論を呼ぶ言い方としてそう仰った気もしますが。)池田さんや、特に、ある種孤軍奮闘のなか身を張って頑張っていらっしゃると思しき白田氏はやはり僕としては立派というか聡明に感じられました。
ともかくも僕自身の準備不十分な部分も大いにありつつ、参加してみた充実感みたいなものは残念ながら感じ得にくかったですが、とても良い経験にはなったと思います。
関係各位の方々、どうもありがとうございました!
Tomatitoのところでちらっと触れたトニーガトリフ(MySpace/Internet Movie Database)はroma(ロマ。いわゆるジプシーのこと。ジプシーというのは蔑称だということで一時期からロマという名称がおもだって使われるようになったみたいです。最近はロマ自身が、恥じずにジプシーと名乗ろう!的なことを言っていたりもしていてまたジプシーという名称も使われているらしいと言う話も聞いた気がしますが)を題材にした映画を撮り続ける監督とのこと。
僕は音楽が素晴らしいと聞きGadjo Dilo(ガッジョディーロ)という映画と、あとはTomatitoの演奏シーンがあると言うことでVengoを見ています。
僕にとってはVengoは特に僕自身の日常感覚からあまりに離れた目線の映画に見えて何とも言い難い気分にさせられましたが(それくらいテーマが強烈だったということです)、とてもバランス感覚のある媚びのない音楽映画を作る監督だと思います。
にしてもVengoのときは初めて動くTomatitoを見たので、何も知らずに一緒に見に行っ(てくれ)た人にまでキャッキャッ言わせるくらいに(←この人も変わった人だったのかも。。。wwとても綺麗な人だったですが。。!(笑))僕は盛り上がってしまいました。。w(騒いではいないですよ。。!w
Gadjo Diloはサントラも聴きましたが(てか当時買いましたが)多分(東欧の)ロマミュージックの魅力をとてもバランス良くセンス良く取り上げているんじゃないかと思えるような、とても出来が良いアルバムだったと思います。
東欧の(特に政権下でさらなる迫害を受けていたらしい、、ロマの)音楽は1989年のチャウシェスクの独裁政権崩壊後(しかしこのときに不透明な状況もあったのですね。。今知りましたが。)に徐々により様々なものが世界にも知られるようになっていったらしいですが、その流れで一躍時代の寵児的な(?)注目を集めたTaraf de Haidouksはロマミュージシャンの底力を教えてくれるバンドだ!的に紹介されたりもしていましたが、僕も一時期だいぶハマっておりました。。!(笑
でもホントに演奏がすごくかっこいいっす。
このタラフドゥハイドゥークスもガトリフの長編映画デビュー作"Latcho Drom"(ラッチョドローム)に出演しているらしいのでこれも見たいと思いつつ忘れていたと今思い出した。。!
この映画「ラッチョドローム」はなんだかものすごい内容らしくて、ロマとロマミュージックの歴史を103分の中で見せ切る作りになっているらしい。
ロマというのはインド北西部が発祥らしく映画の冒頭は千年前の北インドのシーンから始まるそうだ。
そしてユーラシア大陸をひたすら西へ、地中海に突き当たり、そこからも更に西へ、エジプト、トルコを経て東欧(ルーマニア、ハンガリー、スロヴァキア)、フランス、スペイン・アンダルシアへと至る1000年の旅を歌と踊りで綴った作品とのこと。
すごっ。
ロマは文字を持たない文化だそうで、自らについてもあまり多くを語らず、生活様式も独特故に長らくの迫害を受け続けた民族ともされているそうですが、そういう「記録」という行為や過去未来というものについての概念が希薄なのか、ないのかで、常にそこにあるのは「今このとき」という感覚が生きる力のモチベーションとか喜びの源になっているみたいです。
喜びの源というか、喜びも苦しみも悲しみも痛みも全てが今につめられているって感覚なのかも知れない。
この辺についてはガトリフ自身のインタビューに詳しい(ってこれはVengo公開時のインタビューですが)というか、ガトリフがロマを題材にしながら表現したいことはそういうことみたいです。
そこを言えば、ラッチョドロームに続く作品であった「Gadjo Dilo」は「記録する」という行為について、テーマの比重がより置かれていた作品だったように思う。
で、そういう「今」という感覚というか感情というか何某かの表出として、唄、踊り、音楽というものがとても大切にされてきた、というその辺の感覚的な表現を追うが故に、ガトリフはあくまで音楽映画というスタイルを撮り続けているみたいです。
ガトリフのインタビューを読んでみて僕が興味深かったのは、メディア(とそこに付随したというか、それを付随させているというか、ともかくも、それとセットになった、及び単体での、資本主義パワー)の弊害について触れられている部分でもあったんだけど、20世紀的なというか、近代化の、病みの部分は本当に世界を覆い尽くしていることは心しなければ由々しきことだってことはこんなところでも言えてしまうのか。。!というのが(しかもそれは10世紀ほどにも渡る迫害の歴史ですら変え得なかったロマの文化を浸食しているとガトリフは述べている。。!)嫌な意味で我が意を得させられるようでもありつつ。。
んで、ガトリフはそこをもってグローバリゼーションと言っていますが。
この辺を言い出すと、もう話が連鎖的に長く長くなってしまうので、、w取りあえず発展はさせないとして、ガトリフ絡みのみで話を続けると、
何故か「ラッチョドローム」と題されたページにガトリフのこんな記事が載っているのもとても興味深いと言うべきか、「流通と複製のシステム」と題しながら著作権とかその周辺のシステムの矛盾についてもガトリフはかなり明晰にも思える視点で言及している。
●お陰様をもちまして、9月4日のGOTOKUライブはほぼ満席に近い状態で、GOTOKUの二人もさすがのステージングを披露、とてもハートウォーミングな素敵なライブになったのではないかと思います☆
改めて色々な意味で二人の素晴らしさを確認し、ある意味ただただ感服しました次第。。
僕はと言えば、、正直あまりお二人にも貢献出来ず、自分の足りなさ加減をまざまざと実感しつつも、本当に良い経験をさせて頂いたこの1ヶ月(半?)あまりだったように思います。
GOTOKUの素晴らしいミュージシャンのお二人を筆頭に、この間に関わって下った方々、温かい姿勢で接して下さった皆様には本当に感謝しております。
本当に痛み入るお気遣いを下さる方々にも出会えていると感じています。
かく言いながら、自分自身のビジョンの方向性はある意味では変わらずにとても明確な気もしつつも、僕自身がそこで何をしたらいいのか、何が出来るのか、、何をしたいのか。。等々、、方法論の部分で相当に暗中模索の思いをある意味では深めつつ。。。。。ですが、積み重ねる大切さは思っていきたいと気持ちを新たにしております。。!
ま、、、マイペースも大事にしつつ、おっちょこちょいもしながら(てへ)、例え回り道をすることになったとしても頑張りたい次第です。。!
とんちんかん野郎ではありますが、、今後ともお付き合い頂けますと本当に幸いです。
重ね重ねどうぞよろしくお願い申し上げます。
GOTOKUライブにつきましては写真なんかを入手でき次第アップするかもしないかも?です。はひ。
僕は色々な意味でいっぱいいっぱいすぎでした・・!てへ
●さて、、僕が忙しさにかまけてすっぽかしてしまった(申し訳ございません。)セミナーの内容はweb上にアップされる予定の模様ですが、
その論文もとい議事録の叩き台のひとつになっている論文へのリンクを貼っておいてみます。
お時間がおありの方やご興味をお持ちの方は全部のリンクに目を通してみて下さい!
具体的な法案とかシステムや政策提言の部分はまだ検討の余地ありということなんでしょうが、そこに至る前提の部分としての現代社会自体やそこに於ける著作物、創作活動なんかの在り方についての分析として、おおかたの意味で健全と思える着眼と明晰な分析が述べられているのではないかと思います。
これは僕らが生きる社会の在り方を問うある意味(レベル)での根元的な問題提起ではないでしょうか。
インターネット社会が云々とか言うのもある意味しんどい話なのかもだな。。。という思いをこのところの経験で個人的に持つに至ってもいるのですが。。という僕自身のぼやきはいいとして、、(うぷぷ)、ですが、やはりそういう技術の発達とか浸透とある意味ではとても密接にリンクしながら、僕らは自分たちが生きる社会の枠組みを、その恩恵も弊害も含めて、出来るだけ一人一人が確認し直した方が好ましい社会に生きているのではないかというか、ある種そういう時代の潮目に、現代は差し掛かっているのではないでしょうか。
めんどくさいけど、やっぱそうなんじゃないのかこのやろー?!みたいな。。・・;
まあ、僕の言い方は良いとして、だけど、世の中の健全さとか、創造的であることの意義は、やはり人の世の中にとって、とても切実なテーマでもあることを、なんだかんだ引き続き科学が万能感を強めつつもあり、物質的にも情報的にもある意味では溢れんばかりに恵まれるに至っているこんな時代に、問い直す因果さをなんだか思わされる気もします。
自分の足で立ってみる。
自分の目でしっかりとモノを見つめてみる。
自分の耳で聴き清ましてみる。
他にもこういうのは色々とあると思いますが、実際の所その中のひとつだけ取り上げてみても、とてもしんどい作業だと思います。
モノや情報が溢れて便利さや効率が増すほどに、向き合うしんどさも実は増すモノなのかもなー。。と思ったりもします。僕自身としては、という話ですが。
スローライフとかLOHASという言葉がキーワードにすらなり、そしてそれがメインストリームに出る過程で実は周到なマーケティングがなされていたりとか、、、言いたくないけどやっぱりある種とんでもない世の中に住んでるワケじゃないですか。。!僕たちは。
これは批判ではないですよ。
くれぐれも。
てか、ここでこんなことを例に挙げることを恐縮に思いつつでもありますが。。ぱっと思いついた例なモノで。。(汗
そういうことが起きるのも、システムの問題なんです。
そこで生きざるを得ないジレンマなんです。
そこで何かしらを懸命にやる過程で、具体化させる思いが強いほどに何かに手を染めなければならない。
僕はそう思います。
口先ばかりで何もしないで来ているでくの坊が何を言うって話です。すいません。
だけど健全さとか、創造的であること、そして自由な表現活動を行える世の中であることという大切さの尊さはやっぱり大事にする方が好ましい、いや、もしかしたらそうしなきゃならないんじゃないかという気もします。
そういったものを育めるのは社会システムが健全なバランスがあればこそであり、そのバランスを維持するには一人一人の参加意識が結局はヒジョーーーーーーーーーーーーーーーゥに重要である。
そういうことなのかも知れません。
めんどくさい話だとも思うし、もっと、例えば、、快楽的な方向に流れたいこともあるのも分かるし(@自己弁護)まあそんな言い方をしなくても楽しくてハッピーなのはとても大切なことでもあると思います。
むしろそこにも関わる話として、大事にしなきゃいけないことがあるという話なんだと思います。
てことで、
みなさま、引き続き頑張りましょう!
三田誠広氏との噛みあわない問答(池田信夫さんのblogより)
世間的にこの数年来色々と著作権絡みのトピックには事欠かないと思われますが、これは色々な部分で社会システム(ひいては人の在り方に関する認識の在り方)が過渡期に入ってきている(結局何事も常に過渡期でもあるのかも知れませんが)面と、なによりIT技術の進歩で様々なメディアのデジタル化やその制作なり複製・再生とかそれらの通信といったモノに関する様な技術が、これまた様々に、そして飛躍的に進歩・流布してきていることで様々なシステムとかスタイルの在り方を根底から問い直さなければならなくなる様な局面に改めて入ってきている実情のある種象徴的な発露のひとつでもあるのだと思います。
web上でも本当に多くの方が指摘なさっている様にホント日本の著作権とかその周辺で起きてることは、現実的には利権とか既得権益保護のための動きでしかないような側面もすごくあるように感じるし、結局それっていうのはもともとその周辺で表現なり創作活動と言ったモノに対する深い洞察なりそこから生まれる理解なりがなされないままここまで来てしまっていることの現れでしかなくもある様に思えるし、その歪みを吸収したり場合によっては増幅したり、はたまた相互作用を与え合ったりしながらしながら周辺業界がやってきてしまっているだろう部分も含めて考えれば、そこで起きてきたり現在進行形で続いている弊害は、表現なり創作活動を実際に行ったり行おうとしてきた人たちに対してだけでなく、社会全体に対してもあまり好ましくはない影響を与えてきているんじゃないかという気がします。
もちろんと言うべきか、時代性というものもあるのだと思いますし、問い直して変えていくことが然るべき部分と、やはり大切である部分として、しかしその本質性は常になり、相応しさに応じるなりしながら問い直され続けて然るべき(あるいは、そうされることが好ましい)部分とがあるのでしょうし(本来社会的価値観というモノはそういうものなのだと思います)それを可能にするシステムをいかに築き、保守点検維持していくかは、そのシステムが具体的にどんなモノになるのであれ、結局永遠のテーマなのかもしれません。
結局ここで問われるのも関わる一人一人の参加意識となんじゃないかという気がします。
その1としながら、その2を書くのかは未定。。
取りあえずは以下時間あるときに関連リンク貼ってみるかもです。