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多様性の故の豊かさとかその先に生じる普遍性(そしてまたこの普遍性が多様性を生むわけでもあるんだと思うし、これはもう卵とニワトリの関係でもあるんでしょうが)なんてことを思いながら昨日改めて上村泰一さんの「のどの奥〜」が聴きたくなって聴いていたりもしたのですが(取りあえずエンドレスで再生していた気がするw)、うーーーん。。ホントにこの味わい深さはなんなんだ・・!とか思ってしまいました。CDというフォーマットの中にパッケージされている同じ音を聴いているはずなのになんだか気温とか湿度によって(つまり天候とか季節によって)音のカラーがこんなにも変わって見えるのは驚異的な気がするし、ホント上手く言えないんだけど、なんだか多様性の凄さみたいなものの前に自分のこれまでの価値観が突き動かされて思いっきり揺さぶられてしまうような音というか、この音の深みとか色彩の豊かさはホントに半端ないです。
しかもこの色彩感覚はこれ見よがしではなくて一見わびとか寂とかの感覚を思わせるようなというか、前に出した喩えで言うなら、水墨画のような、繊細な濃淡の具合によって描き分けられたかのような味わいの世界の奥に潜むものすごく豊かな色彩というべきか。
色彩の驚異的な豊かさ故にこの音は光の当たり具合によって驚くほど違う表情に見えたりもするのだということが何度も聞くうちに僕にも少し理解出来てきたような気もします。
って、なんか書けば書くほど上村さんの素晴らしいミュージシャンシップに対して失礼なことを書き散らかすことになりそうで、おっかなびっくりしながら書いているわけですが、、w
上町63のマスター氏がかみむらさんのアルバムを指して「これはほんっとに名盤だよ。なんでかっていうと毎日聴いてるけど聴き飽きたことがない。」とか仰ったわけですがw(ってマスターが言ってたのは「のどの〜」ではなくて「Girls From New Mexico」の方)僕にとっては「のどの奥からうまれそうなかんじ」がそういう凄まじい魅力を静かに(ときに激しく)放ち続けるアルバムって感じになってます。
「デザインの生態学」という本の中にデザインの本質について述べられているこんなくだりがあるのですが
(以下引用)
(引用終わり)身体は知っていたけれども、意識では気づかなかったことを発見すること。たとえば、スポーツにおいて、思考を重ねてあるとき見出されたフォームは、それがむしろ最初からそうでしかあり得なかったかのような自然さを持ち始める。試行錯誤を経た果ての、なんだこれじゃないかという了解は、あたかもすでに知っていたことを発見し直すような奇妙な感覚をともなわないだろうか。
オリジナリティを伴った物づくりにおいての理論は実践の後から追ってくるモノでもあるということも述べられながら書かれていたりもするこの本の冒頭部からの引用だったのですが、かみむらさんの音楽にはクリエイティビティの王道を孤高に追い求めているような凄さが潜んでいることを感じます。
いえ、そういうそれぞれの孤高をそれぞれに葛藤しながら凄まじく追い求めているミュージシャンが少なくとも日本の現在のジャズシーンにも決して少なくなからずいるということを僕は思い知らされて自分のここまでのゆるさにうんざりして焦りつつも改めて未来への希望やこの先の自分の活路をよりポジティブに考えられるような心境に達しつつあるのですが、みなさん!かみむら泰一、市野元彦、橋爪亮督、藤原大輔とかこの辺を買って聴いてみましょう!(笑
この辺をローテーションで聴いてみると日本発の現在進行形でどういう素晴らしいオリジナリティとクリエイティビティと多様性と普遍性に溢れた音楽の高みが織りなされつつあるのかを感じることが出来るんじゃないかと思います。
って別に僕は何か回し者とかじゃないっすからねw
ほんとーに素晴らしいからより多くの人に勧めたいだけです。
絡みで仕事が生まれたら嬉しいのは当たり前ですが、それは関係ないとしても薦めたい!w
そしてその周辺にも、そうじゃないところにも様々なすーーーんばらしいミュージシャンが沢山います。
でも残念ながら無名に近い人が多いのですが、より豊かな社会を築いていくために大事なのはニュートラルな意味でのそれぞれの(音楽で言えばリスナーも含めた)審美眼でもあるんじゃないかってことを書いておいてみようと思いまうす。
ちなみに今朝は市野さんsketchesに手が伸びてまっすw
(聴くCDがそういうのしかないってことじゃないからね!w)
なんかこう柳宗理とかイサムノグチとかamadanaとかもっともろに日本の伝統家具とかと、pour annickとかhhstyleとかIDEEとかで買ってきたインテリアとかと、場合によっては拾ってきた石とか流木とかを加工したようなオブジェとかなんかも合わせてうまーい具合に配置したシックでジャパニーズテイストが強めな傾向のモダンさもありつつ少しだけヒップなテイストもありつつナチュラルテイストもあるような快適な部屋で高級まっすぃーんで煎れたてのエスプレッソとか飲みながら仕事はじめっかー!みたいな気分だーw(すごい妄想 きゃ
GOTOKUもよろしくでーす(笑
http://www.r-school.net/program/event/on_moveon_move.html
先日、最近言われているデザインとか、僕的な懸案事項になっているような気もしているマッチングとかってことをなんとなーく考えながら歩いていて家の近所の公園に差し掛かったんだけど、養護施設の方と思しき人たちが公園内を清掃作業してくれている最中でした。
あー、、、これぞデザイン。マッチング。。?!
ふと脳裏に浮かんできた。
きっとさりげないところにそんなこんなは昔から町に溢れてもいるんだろうな、と。
そのさりげなさをすくい上げてみる作業でもあるんだろうけど、敢えてデザインという名を持ち込むのはあくまで今時のシステムの危うい部分に対してのテーゼであって、「もともとそこにあるさりげないもの」へのリスペクトはきっと一方でとても大事なんでしょうね。
多分、社会というモノはすべからくそこに属する各人に錯覚を起こさせつつそれを信じ込ませることで成り立っている部分も多いんではないかという気もする。
現代において、その部分の表出として比較的分かりやすい部分でもありつつ結局一人一人にとって切実に生き方を左右してくるモノがジェンダーなのではないかという気もします。
今のところの人間というモノはこのジェンダーにですら多少の差こそあれ皆囚われており、結局社会としてもそこからは全く自由ではない様に思う。
僕
らの世界は様々な歴史のうねりを経て、例えばこの数千年なり(?)で考えれば、ある種の大きな流れとしては王政の時代から民主主義へと変遷してきているわ
けでもあると思うけど、それと、例えば、もう一方でのあらゆる意味でのテクノロジーの進化とあいまって、一人一人がより自由(という言い方は曖昧すぎて語
弊があるケースも少なくないとも思うけど、、)に成り得る方向へと向かって、一人一人がより解放され開放された状態として生き得る社会へと向かって変遷を
遂げてきているというのは、その変化を緩やかに求めるか急進的に貪欲に求めるかの違いこそあれ、多分そう間違ってもいない解釈じゃないかと思っています。
人
間が携わるあらゆる分野を前進させる原動力はそこにあるのではないか、、と言うか。(しかし常に懐古的だったりもしつつの揺り戻し作用もどこかしらで同時
に起きている様にも思えるけど。これはきっと一人一人の人間の中でも常に起きえることじゃないかとも思います。例により、これは良い悪いのはなしとして
いっているわけではないです。結局のバランスの意味でこういうことも必要なことなのかも知れないですし。)
しかしあらゆる分野をもってして、そし
て数千年の歴史とか、言語獲得以来の10万なり20万(?)年、あるいは、人類誕生以来の一人一人の人間にとってみれば気が遠くなるほどの悠久の時を以て
しても、僕らはまだ到達点までは遠く及ばない道のりの途中なんじゃないかという気がする。
こういうことを考えるためのひとつの手がかりに
も思えることは、「すべからく現段階の人類というモノは実際の所、人間の脳の全体の能力の20%程度しか使わないまま死んでいく」なんていう研究結果もあ
ることからも想像できる気もするし、そもそも脳の研究は20世紀に入るまでほとんどなされていなかったらしいし、現段階で有効な発見とされる事実はほとん
どがごく最近十数年内の研究結果によるものだそうで(全く専門知識はないので勝手なこと書くのもよくないかもだけど、これは今後も新たな理解や発見によっ
てどんどん塗り替えられたりもするのではないでしょうか。余談ですが、僕はそういう意味からもあまり手軽に人間理解をした様な気になる遊びの類はあまり好
ましいことでもない気がしています。まぁ、、しかし、何かしらのバランスの上でそういう遊びが有効な場合もあるとも思うし、堅苦しいことを言いたいわけで
もないんだけど、なんにつけ「決めつけ」はすごく弊害もあるんじゃないかってことは考えてみた方がよいことの気がするし、それが「手軽」であれば、なおの
こと良からぬ面も持ちやすいだろうことは忘れない方が良いのではないかと思います。)、そう言う意味ではホント僕らは自分自身のことを何も知らないまま毎
日生活していると言えてしまうんじゃないでしょうか。
多分そのことをこれまでも多くの人が直感的に知っていればこそ宗教というものが長らく(10
万年単位の話で言えば長くないのかもだけど)の人類にとって遍く必要とされてきた、、というとちょっと違ってくるかもですが、少なくともその規模の大小に
は関わりなく、社会がある場所にはその社会の在り方に似つかわしい(好ましいのかどうかはともかく、です)形での宗教が存在してきたんだと思うし、それは
上の理由に依るところも多いと言えてしまうのではないかという気もします。
ちなみに言語の獲得と宗教はこれまでの歴史として、ワンセットに近い形で成立してきたと解釈できるらしいですね。
「言
語=社会ありきのツール」であって、しかも言語によって高度な論理性を頭に思い浮かべ得ればこその外なるモノへと内なるモノへの畏敬の念であり、というよ
りも畏敬以前のいかんともしがたい恐怖があればこその、そこからの心の救いなり安定性を求めればこその宗教であり、そこで教えられることが畏敬の念という
高度な抽象概念なのかも知れません。
そして、それこそ宗教なり様々な分野なりが求める先にあるのはやはりなにかしらの真理のようなものではないかという気もします。
僕はいましがた「外なるモノへと内なるモノへの畏敬の念」と書きましたが、しかし内なるモノへの探求というものが意識され始めたのは比較的最近になってからなのかも知れない気もしたりします。
これはそれこそ脳の研究がごく浅い歴史しか持たない分野だということからも言える気もします。
そもそも自身に対する恐怖というか、自我というもの自体が多分かなり高度な抽象概念であって、実際の所、そのことへの人類としての探求はまだほとんど進んでいない状態じゃないかという気もします。
(勿
論と言うべきか、それこそ宗教なり、哲学なり、心理学系統の学問なり、あるいは文学や芸術と言った分野が(場合によってはとても高度な形で)その辺を直感
的に表現してきたことは言えるのだろうと思うし、それだからこその各々の分野の素晴らしさを感じたり価値を理解しようとすることの意義も深いのだと思いま
す。一方で各々が自分の限られた生の時間を少しでも輝かせるために懸命に生きようとることの尊さも言えると思うし、そう言う意味ではこの世の中のあらゆる
モノに価値の上下はないのかもだし、世の中は常に素晴らしい事柄でも溢れかえっているのかも知れないですね。。!)
これはきっと文明の発 展とも関係する事柄で、大自然がもろに人生そのものへ強大な影響力を持っている環境では、そして何かと隣接する人同士や社会同士なりの衝突が物理的な分か りやすい形で起きえやすかった時代(程度問題であってそう言う面は今もあるし、この先も続くのでしょうが。。)、すなわち現代の(日本なりのある程度以上 の先進国と言われる国なり地域なりの一定の環境に住み得ている)僕らが恩恵を被っているほどには自分たちが住む環境をコントロールし得ていなかった様な、 やはり外なる脅威から自分自身や自分たちを守り、生き延びるという人間が生きる上での大前提の確保がもっともっと困難だった時代では、自らの内なるものへ 目を向けてみる余裕なんてなくて当然だし(でもほどよいバランスも起きえていたのかも知れないですが。だけど、過去には戻りようがないはずだし、現代に至 る過程で人類が克服してきたものがどれほどに数多あるのかも意識したほうが良いのではないかという視点で敢えて懐古的な言い方をしません。んで、これもホ ント良い悪いではないけれど、)だけど、こういう時代に生きることになった僕らは自分たちで考えなきゃならない事柄を新たにというか、まだまだというか、 やっとというか、抱えざるを得ないんじゃないかという気がします。
ホントに僕らは未だあらゆる意味で無力でもあり無知なんだという一面も明らかに持ちながら生きざるを得ないのではないでしょうか。
そしてそれは一人一人が一人一人の形として出来るだけ自覚した方が好ましい事柄の気がするし、一方で人類として地球環境そのものにですら影響力を持ってしまっているらしい僕らが成熟していかないことへの危機意識はすごく切望されることなんじゃないかという気がします。
その解決へのカギは、それこそ僕らの一人一人の中にこそあるんじゃないかという気がします。
それは一人一人が自身へと出来るだけ誠実に向き合い、その上で周囲の人たちにも誠実に向き合うという心がけの上にしか見出し難い気もするし、これはとても根気も勇気も必要だったりもする作業になる様にも思う。
ときにはものすごい孤独感に耐えなければならないことでもあったりもするかも知れないですし。
だけど、それこそが、「解放され開放される」ことへの道筋でもある気がするし、これを求め始める場合、誰にとっても「遅すぎると」いう自体はないんじゃないかという気もします。
自らの無力さや無知に謙虚になればこそ、僕らが相応しく武器に出来るモノは「信じること」であり「希望をしっかりと描こうとすること」じゃないでしょうか。
で、きっと答えは、どこか遠くではなくて、みんなが立っている場所の真ん中にある様な気もします。
http://www.kuroteru.com/2007/08/post_8.html
この人に聞けばよいのかどうかは僕には分からないけれど(単に分からないだけです。他意はなく。)、この文章にある様な、「人という存在そのものへの優しい眼差し」みたいなものを持てることはとても素敵だと思う。
というか、この先の時代のためにもすごく大切な視点なんじゃないかと思ったりします。
システムというものは巨大化したり複雑化するほどに、そこからこぼれ落ちながらもホントは人が人らしく健全に生きるためには大切だったりする面を持ち得てしまうモノという気がします。
これは仕方のない部分もあるのかもだし、そこをよりマシなことにしていくには、例えば、政治家頼みとかでもなく(政治が悪い。。!政治家が頼りない。。!とか言うのではなく)教育がどうとか、なんだかんだでも、きっと本質的な部分ではそうではなくて、やっぱり一人一人の意識の問題なんだと思います。
そして、これは本当に由々しくもあり、くるおしくも愛おしくもある、切実なテーマではないでしょうか。
そして一方でシステムはしかし人の在り方を決めてしまう様な所もあるんだとも思います。
だから政治とか社会のことを考えることも大事になってきてしまう、というか。
デザインというものが本質的な部分で社会に対して果たす役割。
といったことを論じている文章を特にここ最近なのかもですが、時折目にしたりします。
それはシステムの至らなさ故にこぼれ落ちるモノをどう拾い上げるか、システムのままならなさ故に生じるジレンマを乗り越えるために、どうやって相応しい合理性(くどい言い方ですが、合理的とか合理主義って言葉はともすると歪めた意味で使われがちだと思えたりもするので、敢えてこういう言い方です。歪めた意味というのは、例えば、効率主義とかと日本語で言う経済的とかってことと、合理的であるということが、本質的な意味以上に取り違えてごっちゃにされてる様な状況が長らくあったと思う。これはものすごく根深い弊害を生んでいるん面もあるんじゃないかなー。。)をそこに与えるための惰性や慣例に慣れすぎた人の目には意外性がある様にも思える様なマッチングなんかを提案できるかってことでもあったりする、みたいな話でもあって、これはでも、デザインに限らずに、プログラミングとかIT(ソフトウェアの世界というのが比較的妥当かもですが)の世界でも、マーケティングの世界でも、あらゆる現場で言われてきている方向性が指し示し始めている部分と一致するのではないかとも思います。
その根底にあるモノ。
それは、「人の存在そのものへの優しい眼差し」なんじゃないかな。。?と思えるなら、世の中にはちゃんとした希望があるんだと言えるのではないでしょうか。
エントリーの副題を「または スノッブという言葉の功罪について」としつつ、身の程知らずにまた勝手な見解を述べてみます。
スノッブという言葉がありますが、
はてなによると
とあり、俗物根性。社会的地位や財産などのステータスを崇拝し、教養があるように上品ぶって振る舞おうとする態度。学問や知識を鼻にかける気取る態度。また、流行を追いかけること。
wikipediaでは
とあります。スノッブ(snob)は一般に俗物、またスノビズム(snobbism)は俗物根性と訳される。
多くの場合、次のような意味で使われる。知識・教養をひけらかす見栄っ張りの気取り屋。また、上位の者に取り入り、下の者を見下す態度を取る嫌味な人物。
とりあえず良い意味としては言われていない言葉の様ですが、平たい日本語に訳してみると、これは「気取り」と言うニュアンスで表現できる言葉だと言う気もしますが、なんというか人間の行動欲求の源を探る様な上では、気取りというのはすごく漠然としすぎている気もするし(しかし、日本語とか日本文化というモノは悪くすると右へ倣えの出る釘打たれるなぁなぁ文化の方向に行く気もするけど、寛容性の上ですごく大事な可能性も含んでいる気がしたりもするのですが)上に書かれている様な意味のスノッブとかスノビズムっていう言葉が表す状態は少し限定的過ぎるというか、しかも、シニカルさとかニヒルさとかアイロニーに囚われている様な悲観主義的なニオイが濃すぎる気もすると言うか、とにかくアンバランスに限定的すぎる気がします。
もしかしたらこれも僕が言いたい方面を現す言葉がちゃんと世の中にはあるのかも知れないけど、もしそうなら勉強が足りなくてすいません。
で、もしそうなら、妥当な言葉をご存じの方は例によって教えて下さると嬉しいです!
まー、しかし、自分の無知とか無学を開き直るわけでもないつもりですが、こういう言葉は概念としてもそう単純ではないと思うし、具体よりも抽象の世界に寄っている言葉だと思うし、語弊を恐れずに書くなら人間の在り方のすごく微細な面についての言い回しという気もするし(しかし微細さに囚われて人生の長い時間を過ごしてしまい得るのも人間の難しさとか歯がゆさでもあるのでしょうが。。)、前のエントリーにも書いた様に、僕は、言語の本質は何かしらの大きな有機体なのかシステムなのかの(世の中とか人間の在り方というモノの総体みたいなものの)ある部分にある視点とか角度からのフォーカスを当てて、便宜的に抽出したり拾い上げるようなことをする行為から生まれるモノというのが名称なり言葉というモノの本質のような気もしているので(哲学とか言語学とか文化学とかとにかく専門的な分野には全然詳しくないので、もっと上手く言う表現があるのかもだけど、なんというか僕は学際的な議論がしたいわけではないので(と言って逃げを打つつもりもないですが、、)その辺のまどろこっしさを感じられる方もいらっしゃるかも知れませんが、その辺はご了承下さいまし)言葉は便宜的に使えばいいという気もするし(しかしそうしていることの自覚はあった方がよいと思います。)、より便宜に適う言葉をより多く身につけることが学問を学ぶことの本質でもある気もしますが、そういう学ぶことの大切さを蔑ろに思ったりはしていないので、その辺を理解した頂きながら読んで頂けると幸いなんですが、しかし、人間の行う遍くは結局は一人一人が自分で自分をヨシと出来るための手段というか道のりでしかない気がするし、それこそそこで本筋を見誤ると世間一般で言われているとされているところのスノビズムの罠に陥るということに他ならない気もします。
と、なかなか本題に入れずに屁理屈にも思われかねない脱線をし掛けている様にも読めるかも知れませんが、しかし、僕が言いたいことはある種ここまでの文章でで図らずも表現されている気もして、どういうことかと言うと、まずこういう一種高踏的な言い回しはともすると屁理屈になってしまうものすごい深みを持っているというか、謂わば両刀の刃であって、相応に複眼的な視点も持つことを心掛けながら使わないとものすごく危険でもあるのではないかと言うことを思うわけです。
というか僕は今、高踏的という言葉を使いましたが、これが意味するところはスノビズムという言葉が指す状態と重なる部分も多いと思うし、スノビズムが単に蔑称であるなら、なにかとても皮肉な運命を背負った言葉にしか思えない気もすると言うか。
って僕はスノッブを擁護したわけではないですが。。!!(笑)
それこそスノビズムとある種対比的にいわれているシニシズム(@はてな。この言葉初めて知ったなり。)に陥るのは人の在り方として好ましくない様な気がするので、こんあ使い慣れない言葉を様々に用いながら身の程知らずな文章を書いてみているわけですが。
ともかくも、ということで、無学を自覚しながら無謀にも上に書かれているスノビズムの意味を反証してみたいと思います。
まずこの言葉がその意味するとおりに使われ始めた背景にはどういう時代背景なり人間や社会への人々の認識があったのかを考えてみると、これはwikipediaに書かれていますが、18世紀ないしは19世紀に使われ始めた言葉の様で、すごくおおまか(で、ある意味とても乱暴)な言い方でしょうが、王制の時代のムードを少なからずの面でまだ色濃く残しつつも民主主義・資本主義の時代へと世の中が移行していた時期のヨーロッパで最初は隠語的に使われ始めた言葉の様です。
と、ここでまたいきなり少し脱線しますが、(近代)民主主義という概念が形成された時期というのは、今から300年ほど前のことらしく、知りたいときのwikipedia頼みの如くまた引用させて貰うと、民主主義という現実の制度そのもの自体は西欧の市民革命を通して広まったとされ、その市民革命に思想面でモチベーションを与えたのが17世紀後半から起こった啓蒙思想とされています。
しかし啓蒙思想自体はその基本的性質でもある理性主義を先鋭化させることで、つまり理性の絶対(信頼?)化を深めることで(人間理性への度を超したというか性急な信頼を寄せすぎようととしたこととか全人類に於けるその共有化への希望を性急に求めすぎたことで、と僕は解釈しますが、これは主観的経験論的な個人的解釈かも知れません。)後に認識論の深化が起きたことでその存在基盤を失っていくことになったそうですが、ではなぜ啓蒙思想が近代民主主義勃興のモチベーションとなり得たのかという部分を考えてみることは意味のない行為ではない気がします。
だって民主主義は僕らの住む社会を実際動かしているとされているシステムなのだから。
そこで見逃せないモノのひとつが自然状態という概念となる様に思うのですが、これは
ということであり、政治哲学上の用語としては、政治体を構成しないバラバラの人間達が生むであろう、人間間の様子である。逆に政治体を構成している人間達は「社会状態」に入ったなどと言われる。
だそうです。「自然状態」は、17~18世紀のヨーロッパにおいて、社会契約説を成り立たせるための理論的架空として政治哲学者達が案出した。代表的な論者にトマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソー等がある。
この自然状態に関するwikipediaの解説はとても興味深いのでご存じでない方は是非読んでみて下さい。
これが示さんとする考え方は、このところのエントリーで僕が(我が身を省みずに)書いてみた一人一人が(社会《というと実感を持ちにくくなる場合もある気がするので、括弧でくくる》)参加意識を持つことへの意義を問う上で叩き台になり得る有効性を未だ失っていないのではという気がします。
該当ページの一番最後にある「自然状態論の今日の日本における意義」と題された一節にこうあります。
自然状態、ないしは社会契約説は、政治体設立の根元を問う議論である。今日の日本で、政治体が何の目的で、どのように人民の意識的営為を経て設立されたか(ないしは日々設立・更新されているか)を意識することは、極端に少ない。“上からの民主化”、“強大すぎる官”などと言われ、それで仕方がないとする風潮であるが、自然状態--政府がなかったらどうなるか--を少し省察するだけで、我々には善し悪しはともかく政府が必要だと意識できるだろうし、すると、どの道設立せざるを得ない政府なら、少しでも人民の役に立つ政府・人民にとって暴政の危険の少ない政府を求めるように、自然になるだろう。
どういう人がこれを書いたんだろうと個人的に気になるところですが(笑)、これは至極真っ当な意見に思えます。
僕が個人的にここで挙げられている3人の論者の中で取り上げたくなるのはジョン・ロックです。
この辺はあまり突っ込んで掘り下げる気は少なくとも当面の意味ではないつもりなので、下手に議論しない方が得策の気もしますが、ジョンロックのページの記述をまんま参照すればこの人は人は生まれながらには白紙の状態だとしているわけで認識論的にも多分啓蒙思想家と括られる人たちの中では後の認識論が採った立場(カントとか?。。ってよく分かってないけど。ホントwikipediaは便利。。。wとか言い過ぎるのも軽く控えたい気もしつつ書いてしまっている人↑)に近い見解だったんじゃないかと思いますが、なにより僕が感じる部分があるのは
まずこの部分です。ロックの強みは、その政治体の構成・運営についてホッブズのような悲観に走ることなく、辛抱強く細かい機関を案出し、暴政に走らない工夫をしたことである。
辛抱強く、悲観に走らない、という姿勢は今の時代を生きる上でもとても価値を持つんじゃないかと思うわけです。
そして続く部分ですが、
要するにロックは人に対する信頼を持っている人だったんじゃないかと。また、根本的に自然状態に対する楽観視があるため、せっかくの政治体が暴政を行って社会契約による信託を裏切る場合には、自然状態に一時的に復する危険を冒してでも、政府を覆す権利が当然留保されていると説く(革命権)。
これはこのままの記述通りであるなら、理性への信仰とかとは少し違うというか、似ている様で現実的な意味としては全く別のことになり得るんじゃないかと思えます。
何かある部分とてもインターネットの誕生とか成立とか発展の根底にある思想にも似ている気もするし、オープンソース思想とかハッカー精神(このハッカーというのはプログラミングとかIT技術なりを使って色々悪さをするクラッカーとは別の意味合いの人たちです。読んで下さっている人には沢山付き合わせて恐縮ですが、そっち方面に明るくない方はお時間ある時にここも読んでみてくださいませ。わけわからない部分もあるかもですが、すごく興味深い記述も少なからずあるのではないかと思います。あとこういう思想とインターネットなりIT技術の発展の今後への展望を考えるときにすごく興味深い視点で(というか多分その視点がハイレベルな技術者の間では世界的にも支配的らしいですが)一般にも分かりやすい見解を発信しつづけている梅田望夫さんって方がいるんだけど、この人の文章はネット上でもかなり色々読むことが出来ます。まとまった形の読みやすさの点では書籍で出版されている「web進化論」と脳科学者の茂木健一郎さんとの対談集「フューチャリスト宣言」が個人的にはオススメです。)とか言ったモノにも通じる思想がロックさん(ここで親しみを少し込めてみる)の発想の根底にはある気がするし、そう言う人の考えが
というのは、とても興味深いし、三権分立の叩き台になる説を言っていたというのもとても興味深い気がします。アメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。
と、ここでやっと少し話が戻ってくるのですが、シニシズムに捕らわれることの危険性を僕は先ほど主張しましたが、日頃の皆さんとのお付き合いとかも含めて(ここまでのある時期の自分自身を顧みた上でも思った方が良いのかも知れませんが、、)色々な場面でなんとなく日常的に気持ちのどこかしらで感じる違和感というか、喪失感とか焦燥感なり危機感みたいなものや歯がゆさなんかの場合や孤立感(とここで書くのは少し勇気が要るけど)とかの場合もありますが、場面によってそういう色々な形に変わるあまり僕自身にとっては好ましくない感覚というものはなんなんだろう?という疑問はあまり考えないつもりでいても、結局どこかしらつきまとったりしてきた気がするんですが、ではこれが僕固有の問題から始まる僕個人のみのハナシなのかというと、なんだか結局いろんな人と色々に話してみたり、知り合ってからそれなり以上の期間のつきあい(疎遠になる時期や場合も含まれるけど)をさせて頂いた上で、そうでもない部分もそれなりにあるんじゃないか、という気もすると言うか、これはそれこそ内省も同時進行で重ねてきた上で思うことでもあるんだけど。
んで、最近以前よりも少しだけ明確に思ってしまっても良いんじゃないかと思えることがあって、それは世の中がなんだかシニシズムに(もしかしたらあまりにも)アンバランスに囚われてしまってもいるんじゃないか、ということでもあったりするわけです。
あんまりここを声高に主張したくもない気もするけど、特にマスの部分がそういうムードをばらまきすぎてるんじゃないかという気もします。
さすがにこれだけ書くと時間なくなってきたので続きはまた!)
野心的なタイトルのエントリーかも知れませんが、この辺については常日頃思うところが僕の頭の中には渦巻いている気もします。
まず話をしていく取りあえずのとっかかりとして「ジェンダー」という言葉を持ち出してみたいと思います。
wikipediaを参照すると「ジェンダー」という用語の意味合いは色々と錯綜していたりもする様ですが、その辺で言うとそもそも用語(というか語弊を恐れずに書くなら物事の名称全般といものは)結局は便宜的な一種の流用なのであって(言い過ぎると哲学的だったり言語学とか文化人類学的な論争に発展しそうですが)、名前とか呼称とかいうものそのものとかその意味合いに必要以上に囚われないことも実は大切なことじゃないかと思うわけです。
また話が極端に飛ぶ様かも知れないけれど、ある種そこからはイデオロギーの対立から起きる様な、本来的には不要だったかも知れない(不要というのは白黒の話ではなく程度問題だという認識で書いてます。これは本来的な好ましい認識として、そういうものではないかという意味でも思うことですが。)悲劇を様々に重ねてきてもしまっている様にも思えるというか、かも知れない様な、人間の歴史もが証明している様にも思える、人が抱え得易いジレンマを連想したりもするわけですが。
とりあえずも僕は、ある面では僕なりの勝手な言い方にもなるのかも知れませんが、ジェンダーというものを日本語で言う「〜らしさ」という言い方で様々な場面で表現されているある種の概念みたいなものを指す言葉として使ってみたいと思います。
他にもっと適当な言葉があるのかも知れませんが、その辺はもしご存じ方がいらっしゃれば教えて下さいませ。
さて、この「〜らしさ」というのは自分自身で自分自身に対して使用するのであれば、それこそ人の在り方というモノに照らして考えてみて、好ましいことの気がします。
で、そういう場合の言い方としては「ジェンダー」には当てはまらないこととしたいと思います。
要は「社会的に期待される性質」みたいなものを「ジェンダー」という言葉で便宜的に言ってみているわけですが、要するに自己決定的であるのか、外からの要求とか、もっと言えば半ば(もしくは場合によってはまんま)圧力的に期待されている上での決定であるのか、その辺の違いの重要性なりを考えてみることはとても大切なんじゃないかってことを僕は言いたいわけですが、端的に言えばジェンダーフリー的な意味合いのことを僕は言っているのだと思います。
リンクを張りつつwikipediaの要約を拝借すると
ジェンダーフリー(gender-free)とは、社会的性別(ジェンダー)に対する一般通念にとらわれず、人それぞれの個性や資質に基づいて、自分の生き方を自己決定出来るようにしようという、「固定的な性役割の通念からの自由を目指す」思想、および、この思想に基づいた運動を指す。『デイリー新語辞典』(三省堂)では、「従来の固定的な性別による役割分担にとらわれず,男女が平等に,自らの能力を生かして自由に行動・生活できること。」と定義されている。
ということになりますが、おおむねの意味合いではこういう言い方が伝わりやすいのかな?という気もしますし、まずはこういう意味合いを足がかりに僕の思うことを述べてみようかと思います。
と言いつついきなりきびすを返す言い方になるかも知れませんが、これだけ世の中の組織化や情報化とか様々な情報のアーカイブ化等々またITなんかに限らない科学技術や医療なんかの発達が進んでくると、果たして生物学的な性差というものの意味合いがひとりひとりのニュートラルな内面に対してどれだけの影響を及ぼしているのかは案外というべきか、一概には言い難い部分もあるのではないかという気もします。
これはあくまで個人的な見解としての側面が強い言い方になるのかも知れませんし、勿論、生物的な性差(性別と言った方が良いのかな)とか、それこそ日本語で言うところのジェンダー的な部分に対しての理解とか、認知(そして違いの尊重)も結局とても大事な側面もあるんだとも一方では思いますし、積極的な意味で何かを否定したいわけではないのです。
しかしそれもある意味では互いの個性の尊重という意味合いに還元できる部分もあると思えたりもするし、今のところの世の中でのまだまだ支配的にも思える「期待される性」として多くの人が謂わば暗黙の了解とか前提条件と言わんばかりの共通認識として実質的に持ち出している一種決めつけ(←言い方が悪いかも知れませんが)のようなムードというか、思いきって言ってしまえば強迫観念めいた部分に立って毎日の生活を送ることについて疑問とか歯がゆさを感じる場面も僕にはあります。
簡単に書けば、社会的な所属とか年齢とか性別とか身体的特徴にかかわらず(学生も社会人も芸術家も政治家も経営者もサラリーマンもフリーランスの人も子供も大人も年寄りも女も男も人種とか民族も信仰なんかも関係なく)、やっぱ人は人じゃん?!というようなことを思ったりもするし、そこをきっちり認識できる場所というか部分というかが社会の中でなにかしら確保されていくことはすごく大事なことなんじゃないかという気がするのです。
これと謂わばセットで大事に思うことは自己決定とか自主的であることは好ましいことだと認識できることとかそれに対してなんらかの強迫観念に基づいた動機付けはあまり好ましくはないというか、まあ、、、現実的にはこういうものから自由になるのはすごく難しい面もあると思いますが(だから気楽に書ける話ではないです)、しかし、その辺のことを「自覚できる」ということはすごく重要じゃないかと思うのです。
これは一人一人の人間の中での話としては、ものごとをちゃんと「楽しめる」という感覚にも繋がることだと思う。
違う言い方をすれば人間存在への愛情を持てるかどうかって話にも繋がると思うし、それは自分自身や人の世の未来に対して希望をもてるかどうかという部分にも本質的な意味で繋がってくる話じゃないかと思います。
そして、「希望を持つ」というのは「信じること」なんだと思います。
とても難しいことを書いてしまっているんだとも思うけど、どのみち生き抜くことは困難さがつきまとうことなんだと思うし、ならばそこに希望を込めるのか、きちんと楽しもうとするのか。
結局これはすごく切実なテーマに関わることなんじゃないかという気がします。