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ちょっと前に見つけた記事ですがまずは読んでみて下さい。
授業料のために「処女売ります」は“アリ”なのか——資本主義って何だろう?
さて、正直タイトルがちょっとばかりセンセーショナルな気もしてリンクにまんま記事タイトルを貼ってしまうかどうかも迷ったのですが。
てか、正直この辺はとても扱いが難しい話だとも思うのですが、まず、社会なり人間一人一人にとっての「性」というモノの扱い方はまんま生き方や在り方を左右する部分があると思う。
これは僕がかねてから取り上げているジェンダーの話なんかにもとても根元的な部分で関わってくることでもあると思うわけだけど、人の生き方を左右する様なトピックを取り上げて、「善い」とか「悪い」なんていう価値観を持ち込みかねない議論は下手にやるべきではないと思っています。
ただ書かれている様な内容を取り上げるときに確かにこういう部分から話をしてみると、より実感を伴いつつ話を考えられるケースもあるのかも知れないし、問題の切実さを訴えたり、あとは単にセンセーショナルに話を振ることで「つかみ」に持って行きやすい的な効果もあるんだろうな、という意味でアリなんだろうなと思いつつ、僕の意見も書いてみることにします。
多分、民主主義というのも資本主義というのも仕組みとしては良くも悪くもないモノなんだろうと思います。
その中の人たちのやり方次第、つまり結局は社会自体の成熟度次第で良くも悪くも機能するシステムなんじゃないでしょうか。
これらは柔軟性というか自由度みたいな部分ではきっとこれまでに人類が考え出して行ってきた他の仕組みより勝っているシステムなんだろうと思います。
民主主義とか資本主義というシステム自体はハードウェアで、中で動かせるオペレーションシステムも含めたソフトに関しては比較的幅広く色々なタイプに対応している的なイメージで言っているのですが。
だからその意味で人間が考え出してきた社会システムの中では比較的マシなモノなんだと言われているんだと思うし、現実に僕らはそのシステムの中で生活することになったというか、そのシステムで動いている社会に生まれ落ち恐らくこれを読んでくれる多くの人はきっと僕同様にその中で死んでいくんだろうと思います。
まあとにかくも、やっぱりその意味からも一人一人の参加意識とか自覚とか責任感はすごく大事なんじゃないかなー。。と思うわけです。
制度を信じすぎたり、それありきが当たり前だと信じて疑わない在り方ややり方は、民主主義とか資本主義というシステム自体をダメにする様な気もします。
僕としてはこの視点が日本の社会自体にまだ足りなすぎるんじゃないかという気がする様な気がします(言い回しがくどい?w)
この記事を読むと世界的に見てもそう言うことになってると読める気もします。
というか、そういう人の意識や世の中のムードを作っていくモノ自体もシステムなんだと思うんだけどねー。。!
その辺ホントみんなで自覚して考えていかないと、すごーーーく嫌な世の中になっちゃうんじゃないかな。。!!!?と僕は懸念します。
追記)
資本への恐怖
それと多少話題がそれてしまいますが、、(本質的にはすごく関係あると思うけど)
このエントリーの最初に貼ったリンク元の元ネタになってる記事のページに関連記事として貼られていたリンクの元の記事(←わかりにくい)
今更ながら、世の中にはいろんな社会があるんですね。。
読むと、すごく不快な虫唾が走るし、怒りと悲しみが混じった感情がこみ上げますが、これが人の世の哀しさでもありままならなさの現れでもあるのかも知れません。。
この事件に何か感じるモノがあるとして、だけど、究極的には、僕らが結局それぞれに相応しくできることは自らの襟元を正すことでしかないんじゃないでしょうか。
多分、社会というモノはすべからくそこに属する各人に錯覚を起こさせつつそれを信じ込ませることで成り立っている部分も多いんではないかという気もする。
現代において、その部分の表出として比較的分かりやすい部分でもありつつ結局一人一人にとって切実に生き方を左右してくるモノがジェンダーなのではないかという気もします。
今のところの人間というモノはこのジェンダーにですら多少の差こそあれ皆囚われており、結局社会としてもそこからは全く自由ではない様に思う。
僕
らの世界は様々な歴史のうねりを経て、例えばこの数千年なり(?)で考えれば、ある種の大きな流れとしては王政の時代から民主主義へと変遷してきているわ
けでもあると思うけど、それと、例えば、もう一方でのあらゆる意味でのテクノロジーの進化とあいまって、一人一人がより自由(という言い方は曖昧すぎて語
弊があるケースも少なくないとも思うけど、、)に成り得る方向へと向かって、一人一人がより解放され開放された状態として生き得る社会へと向かって変遷を
遂げてきているというのは、その変化を緩やかに求めるか急進的に貪欲に求めるかの違いこそあれ、多分そう間違ってもいない解釈じゃないかと思っています。
人
間が携わるあらゆる分野を前進させる原動力はそこにあるのではないか、、と言うか。(しかし常に懐古的だったりもしつつの揺り戻し作用もどこかしらで同時
に起きている様にも思えるけど。これはきっと一人一人の人間の中でも常に起きえることじゃないかとも思います。例により、これは良い悪いのはなしとして
いっているわけではないです。結局のバランスの意味でこういうことも必要なことなのかも知れないですし。)
しかしあらゆる分野をもってして、そし
て数千年の歴史とか、言語獲得以来の10万なり20万(?)年、あるいは、人類誕生以来の一人一人の人間にとってみれば気が遠くなるほどの悠久の時を以て
しても、僕らはまだ到達点までは遠く及ばない道のりの途中なんじゃないかという気がする。
こういうことを考えるためのひとつの手がかりに
も思えることは、「すべからく現段階の人類というモノは実際の所、人間の脳の全体の能力の20%程度しか使わないまま死んでいく」なんていう研究結果もあ
ることからも想像できる気もするし、そもそも脳の研究は20世紀に入るまでほとんどなされていなかったらしいし、現段階で有効な発見とされる事実はほとん
どがごく最近十数年内の研究結果によるものだそうで(全く専門知識はないので勝手なこと書くのもよくないかもだけど、これは今後も新たな理解や発見によっ
てどんどん塗り替えられたりもするのではないでしょうか。余談ですが、僕はそういう意味からもあまり手軽に人間理解をした様な気になる遊びの類はあまり好
ましいことでもない気がしています。まぁ、、しかし、何かしらのバランスの上でそういう遊びが有効な場合もあるとも思うし、堅苦しいことを言いたいわけで
もないんだけど、なんにつけ「決めつけ」はすごく弊害もあるんじゃないかってことは考えてみた方がよいことの気がするし、それが「手軽」であれば、なおの
こと良からぬ面も持ちやすいだろうことは忘れない方が良いのではないかと思います。)、そう言う意味ではホント僕らは自分自身のことを何も知らないまま毎
日生活していると言えてしまうんじゃないでしょうか。
多分そのことをこれまでも多くの人が直感的に知っていればこそ宗教というものが長らく(10
万年単位の話で言えば長くないのかもだけど)の人類にとって遍く必要とされてきた、、というとちょっと違ってくるかもですが、少なくともその規模の大小に
は関わりなく、社会がある場所にはその社会の在り方に似つかわしい(好ましいのかどうかはともかく、です)形での宗教が存在してきたんだと思うし、それは
上の理由に依るところも多いと言えてしまうのではないかという気もします。
ちなみに言語の獲得と宗教はこれまでの歴史として、ワンセットに近い形で成立してきたと解釈できるらしいですね。
「言
語=社会ありきのツール」であって、しかも言語によって高度な論理性を頭に思い浮かべ得ればこその外なるモノへと内なるモノへの畏敬の念であり、というよ
りも畏敬以前のいかんともしがたい恐怖があればこその、そこからの心の救いなり安定性を求めればこその宗教であり、そこで教えられることが畏敬の念という
高度な抽象概念なのかも知れません。
そして、それこそ宗教なり様々な分野なりが求める先にあるのはやはりなにかしらの真理のようなものではないかという気もします。
僕はいましがた「外なるモノへと内なるモノへの畏敬の念」と書きましたが、しかし内なるモノへの探求というものが意識され始めたのは比較的最近になってからなのかも知れない気もしたりします。
これはそれこそ脳の研究がごく浅い歴史しか持たない分野だということからも言える気もします。
そもそも自身に対する恐怖というか、自我というもの自体が多分かなり高度な抽象概念であって、実際の所、そのことへの人類としての探求はまだほとんど進んでいない状態じゃないかという気もします。
(勿
論と言うべきか、それこそ宗教なり、哲学なり、心理学系統の学問なり、あるいは文学や芸術と言った分野が(場合によってはとても高度な形で)その辺を直感
的に表現してきたことは言えるのだろうと思うし、それだからこその各々の分野の素晴らしさを感じたり価値を理解しようとすることの意義も深いのだと思いま
す。一方で各々が自分の限られた生の時間を少しでも輝かせるために懸命に生きようとることの尊さも言えると思うし、そう言う意味ではこの世の中のあらゆる
モノに価値の上下はないのかもだし、世の中は常に素晴らしい事柄でも溢れかえっているのかも知れないですね。。!)
これはきっと文明の発 展とも関係する事柄で、大自然がもろに人生そのものへ強大な影響力を持っている環境では、そして何かと隣接する人同士や社会同士なりの衝突が物理的な分か りやすい形で起きえやすかった時代(程度問題であってそう言う面は今もあるし、この先も続くのでしょうが。。)、すなわち現代の(日本なりのある程度以上 の先進国と言われる国なり地域なりの一定の環境に住み得ている)僕らが恩恵を被っているほどには自分たちが住む環境をコントロールし得ていなかった様な、 やはり外なる脅威から自分自身や自分たちを守り、生き延びるという人間が生きる上での大前提の確保がもっともっと困難だった時代では、自らの内なるものへ 目を向けてみる余裕なんてなくて当然だし(でもほどよいバランスも起きえていたのかも知れないですが。だけど、過去には戻りようがないはずだし、現代に至 る過程で人類が克服してきたものがどれほどに数多あるのかも意識したほうが良いのではないかという視点で敢えて懐古的な言い方をしません。んで、これもホ ント良い悪いではないけれど、)だけど、こういう時代に生きることになった僕らは自分たちで考えなきゃならない事柄を新たにというか、まだまだというか、 やっとというか、抱えざるを得ないんじゃないかという気がします。
ホントに僕らは未だあらゆる意味で無力でもあり無知なんだという一面も明らかに持ちながら生きざるを得ないのではないでしょうか。
そしてそれは一人一人が一人一人の形として出来るだけ自覚した方が好ましい事柄の気がするし、一方で人類として地球環境そのものにですら影響力を持ってしまっているらしい僕らが成熟していかないことへの危機意識はすごく切望されることなんじゃないかという気がします。
その解決へのカギは、それこそ僕らの一人一人の中にこそあるんじゃないかという気がします。
それは一人一人が自身へと出来るだけ誠実に向き合い、その上で周囲の人たちにも誠実に向き合うという心がけの上にしか見出し難い気もするし、これはとても根気も勇気も必要だったりもする作業になる様にも思う。
ときにはものすごい孤独感に耐えなければならないことでもあったりもするかも知れないですし。
だけど、それこそが、「解放され開放される」ことへの道筋でもある気がするし、これを求め始める場合、誰にとっても「遅すぎると」いう自体はないんじゃないかという気もします。
自らの無力さや無知に謙虚になればこそ、僕らが相応しく武器に出来るモノは「信じること」であり「希望をしっかりと描こうとすること」じゃないでしょうか。
で、きっと答えは、どこか遠くではなくて、みんなが立っている場所の真ん中にある様な気もします。
野心的なタイトルのエントリーかも知れませんが、この辺については常日頃思うところが僕の頭の中には渦巻いている気もします。
まず話をしていく取りあえずのとっかかりとして「ジェンダー」という言葉を持ち出してみたいと思います。
wikipediaを参照すると「ジェンダー」という用語の意味合いは色々と錯綜していたりもする様ですが、その辺で言うとそもそも用語(というか語弊を恐れずに書くなら物事の名称全般といものは)結局は便宜的な一種の流用なのであって(言い過ぎると哲学的だったり言語学とか文化人類学的な論争に発展しそうですが)、名前とか呼称とかいうものそのものとかその意味合いに必要以上に囚われないことも実は大切なことじゃないかと思うわけです。
また話が極端に飛ぶ様かも知れないけれど、ある種そこからはイデオロギーの対立から起きる様な、本来的には不要だったかも知れない(不要というのは白黒の話ではなく程度問題だという認識で書いてます。これは本来的な好ましい認識として、そういうものではないかという意味でも思うことですが。)悲劇を様々に重ねてきてもしまっている様にも思えるというか、かも知れない様な、人間の歴史もが証明している様にも思える、人が抱え得易いジレンマを連想したりもするわけですが。
とりあえずも僕は、ある面では僕なりの勝手な言い方にもなるのかも知れませんが、ジェンダーというものを日本語で言う「〜らしさ」という言い方で様々な場面で表現されているある種の概念みたいなものを指す言葉として使ってみたいと思います。
他にもっと適当な言葉があるのかも知れませんが、その辺はもしご存じ方がいらっしゃれば教えて下さいませ。
さて、この「〜らしさ」というのは自分自身で自分自身に対して使用するのであれば、それこそ人の在り方というモノに照らして考えてみて、好ましいことの気がします。
で、そういう場合の言い方としては「ジェンダー」には当てはまらないこととしたいと思います。
要は「社会的に期待される性質」みたいなものを「ジェンダー」という言葉で便宜的に言ってみているわけですが、要するに自己決定的であるのか、外からの要求とか、もっと言えば半ば(もしくは場合によってはまんま)圧力的に期待されている上での決定であるのか、その辺の違いの重要性なりを考えてみることはとても大切なんじゃないかってことを僕は言いたいわけですが、端的に言えばジェンダーフリー的な意味合いのことを僕は言っているのだと思います。
リンクを張りつつwikipediaの要約を拝借すると
ジェンダーフリー(gender-free)とは、社会的性別(ジェンダー)に対する一般通念にとらわれず、人それぞれの個性や資質に基づいて、自分の生き方を自己決定出来るようにしようという、「固定的な性役割の通念からの自由を目指す」思想、および、この思想に基づいた運動を指す。『デイリー新語辞典』(三省堂)では、「従来の固定的な性別による役割分担にとらわれず,男女が平等に,自らの能力を生かして自由に行動・生活できること。」と定義されている。
ということになりますが、おおむねの意味合いではこういう言い方が伝わりやすいのかな?という気もしますし、まずはこういう意味合いを足がかりに僕の思うことを述べてみようかと思います。
と言いつついきなりきびすを返す言い方になるかも知れませんが、これだけ世の中の組織化や情報化とか様々な情報のアーカイブ化等々またITなんかに限らない科学技術や医療なんかの発達が進んでくると、果たして生物学的な性差というものの意味合いがひとりひとりのニュートラルな内面に対してどれだけの影響を及ぼしているのかは案外というべきか、一概には言い難い部分もあるのではないかという気もします。
これはあくまで個人的な見解としての側面が強い言い方になるのかも知れませんし、勿論、生物的な性差(性別と言った方が良いのかな)とか、それこそ日本語で言うところのジェンダー的な部分に対しての理解とか、認知(そして違いの尊重)も結局とても大事な側面もあるんだとも一方では思いますし、積極的な意味で何かを否定したいわけではないのです。
しかしそれもある意味では互いの個性の尊重という意味合いに還元できる部分もあると思えたりもするし、今のところの世の中でのまだまだ支配的にも思える「期待される性」として多くの人が謂わば暗黙の了解とか前提条件と言わんばかりの共通認識として実質的に持ち出している一種決めつけ(←言い方が悪いかも知れませんが)のようなムードというか、思いきって言ってしまえば強迫観念めいた部分に立って毎日の生活を送ることについて疑問とか歯がゆさを感じる場面も僕にはあります。
簡単に書けば、社会的な所属とか年齢とか性別とか身体的特徴にかかわらず(学生も社会人も芸術家も政治家も経営者もサラリーマンもフリーランスの人も子供も大人も年寄りも女も男も人種とか民族も信仰なんかも関係なく)、やっぱ人は人じゃん?!というようなことを思ったりもするし、そこをきっちり認識できる場所というか部分というかが社会の中でなにかしら確保されていくことはすごく大事なことなんじゃないかという気がするのです。
これと謂わばセットで大事に思うことは自己決定とか自主的であることは好ましいことだと認識できることとかそれに対してなんらかの強迫観念に基づいた動機付けはあまり好ましくはないというか、まあ、、、現実的にはこういうものから自由になるのはすごく難しい面もあると思いますが(だから気楽に書ける話ではないです)、しかし、その辺のことを「自覚できる」ということはすごく重要じゃないかと思うのです。
これは一人一人の人間の中での話としては、ものごとをちゃんと「楽しめる」という感覚にも繋がることだと思う。
違う言い方をすれば人間存在への愛情を持てるかどうかって話にも繋がると思うし、それは自分自身や人の世の未来に対して希望をもてるかどうかという部分にも本質的な意味で繋がってくる話じゃないかと思います。
そして、「希望を持つ」というのは「信じること」なんだと思います。
とても難しいことを書いてしまっているんだとも思うけど、どのみち生き抜くことは困難さがつきまとうことなんだと思うし、ならばそこに希望を込めるのか、きちんと楽しもうとするのか。
結局これはすごく切実なテーマに関わることなんじゃないかという気がします。